大共和党

「緑の保守‐緑の維新」の解説および我々の活動

 一方で、この「緑の保守」という理念を、歴史的秩序や伝統文化の維持と修正を意味する政治思想の術語としての「保守」に対する(「緑の」という)限定と強調という側面から捉えるなら、これに対応するのは「各々の文化、文明の緑(性)」ということであり、したがってここで我々にとって重要なのは「日本文明の緑(性)」ということになります。
 江戸時代の日本は「理想的な循環型社会」であったというようなことは、今では既に周知の事実となっていますが、こうした物質的側面ばかりが注目され、より重要なその宗教的精神的背景については、せいぜい「もったいない精神」などという程度で、ほとんど認知されていません。もちろんこの宗教的精神的背景なるもののうち、とりわけ注目すべきは日本固有の祭祀である神道であり、樹木を神格化し、わけても森林を聖域とするという点を以って、神道を、原理的には最も「緑」な宗教ということができます。当然、その祭祀長は天皇であり、こうした所以をもって、「神道の緑(性)」「天皇秩序の緑(性)」という理念を抽象することができますが、この抽象の妥当性は、都心に残る二つの大きな緑地である皇居と明治神宮がともに近代神道の聖地であるということからも明らかでしょう。
 そして、日本の国家的統合の生命線であるところの皇位継承の危機と、一方でやはり国民生活の生命線であり、ますます僻地へと押しやられ、存続さえ危ぶまれる農村の伝承の危機の象徴である、異常な低水準を示す食料自給率と、また戦後永らく汚染され、破壊され続けている先祖伝来の自然環境の危機とは、「緑の保守」の危機という、複合的だが一つの問題系列の、言うなれば一つの症候群の、異なる側面、異なる病態だということが出来るわけです。
 現在、地球規模の環境の危機が叫ばれ、温暖化の防止が国際政治の舞台において最重要の課題として議論され、「緑」という理念は人類共通の大義とさえ目されるようになりました。
 しかるに、日本の政治舞台では、NPOの草の根の活動やなけなしの企業努力が喧伝されても、環境保護を理念として掲げる党もなければ、一貫してそれを主張する政治家もおらず、日本ではこの理念は「失われた大義」の観があります。
 わたしたちは、こうした閉塞的状況を打開すべく、国連事務総長自身が「緑の革命」の必要性を唱える、いわば国連事務総長公認の「革命的状況」に棹さしつつ、日本固有の価値としての「緑の保守」「神道の緑」「天皇の緑」といった理念を明徴、普及しながら、全国に点在する神道や環境や農林水産業といった「緑の保守」の関係組織、従事団体との連帯を構築、拡大し、その成果を政治に反映させるべく、右でも左でもなく、あくまで正統派として、全農林水産業や賢明なる国民を支持母体とする政党の結党を目標とし、最終的に世界全体に波及する「緑の維新(Green Renaissance)」を提唱し、実現すべく先覚的な有志が活動する団体です。
 ところで、この「維新」という詞は「再生」を意味する「ルネサンス」に対応する詞だと考えれば、使うことに尻込みをしたり、肩肘を張る必要はありません。とはいえ、多少大仰な詞であることは否めず、場合によっては「緑の維新」に代って「(日本)再緑化」という詞を使ってもよいでしょう。
 「緑の維新」は、軍事を事由とし、またこのかつて軍隊と天皇秩序を結んだ歴史的紐帯の恢復を目論み、その力に訴えようとした、三島由紀夫流の短絡的かつ絶望的な軍事クーデター方式の維新ではなく、確かにその企て自体が一種の思想的クーデターに基づくものであるにしても、「緑の保守」という「忘れられた」、しかし尚も地方や農村と天皇秩序を結ぶ大義を案件とし、その歴史的紐帯を恢復し、その力に訴えるという構図と方式において、むしろ田中正造の直訴と相似であり、その大きな枠組みがいわば一個の迂遠なる直訴であるところの、平和的維新であるといえます。
 より具体的には、緑の秩序という有機的秩序の錐体構造の全体系を支える底部を担う地方や農村が、ともに苦衷を分かつ、同じ体系の頂きをなす帝冠である天皇秩序を、「緑の保守」という理念の明徴を通して改めて敬戴することで、現に潜在的にそうである皇室が改めて地方や農村の庇護者として顕現することになる、ということです。そして、いったんこの動きが始まってしまえば、いかなる大義もこれを押し留めることは不可能です。この対唔によって両者が、そしてついには日本全体が、新たな装いのうちにかつての活力をとりもどすことができるのです。だから「緑の維新」は、今一つの根本問題、大本を事由にした「再緑化」という正常化であり、眠れる日本をゆりおこす「再生=復活」だといえます。